月刊ビオラ~Shimpei特集記事~ -3ページ目

倫敦5☆

   

   セントポール大聖堂  youth hostel  半地下の窓ごしに

  図を頼りにユースホステルを探す。チューブの駅をでると、セントポール大聖堂。ここはダイアナ妃と皇太子の結婚式が行われた場所だそうだ。大聖堂という名だけあって、普通の教会とは格が違う。巨大な石が何段も積み上げられて、細かい彫刻が施されている。今日は途方もなく疲れているから、また明日の朝、ゆっくり見ようということにした。寄り道からサヨウナラ。

 ステルを見つけ出したはいいが、思い描いていた扉とは違う。開放的なガラス製の扉をイメージしていたが、真っ黒で大きく頑丈な扉だ。中の様子は一切垣間見れない。しかも鍵が閉まってる。なんといっても、ドアノブがないのだ。これじゃ頑張っても開けられない。頑張りようもない。24時間チェックイン可能って確認したはずなのに。もう遅い時間だから、まわりに人気はない。どうしようか途方に暮れていたところ、客のひとりであろうお姉さんが帰ってきた模様。開かずの扉をどうするのか見つめていると、傍らのブザーを鳴らした。そしたらなんと、扉が自然にガタッと開いたのだ。俺たちは三人で顔を見合わせる。開いたね・・・。その扉が閉じないうちに急いで入り込んだ。

 さなフロントには、機嫌の悪そうな従業員。アフリカ系イギリス人男性。夜勤がつらそうだ。おそるおそるネットの予約を確認してもらう。このユースホステルは、一泊朝食付きで£20(4000円)。ロンドン中心地にしてはかなり安い。だから、多少の悪状況でも文句は言えないことは覚悟の上だ。確認を終えると、名前や住所やパスポートナンバーを書く。そして、パスポートを見せろと言ってきた。俺は偶然持っていたからいいけど、友達は持っていない。すごいあやしい目でこっちを見てくる。自分たちは語学学校に通っていて、ホリデーでロンドンに来たと説明。パスポートはなくしたら大変だから、普段は持ち歩かないんだと説得。長い沈黙。

 め顔で、しぶしぶ鍵を渡してくれた。やっと部屋に着く。鍵を差し込む。これまた、開かない。ここは六人部屋のドミトリー。だから中で眠る他の客を起こさないよう、静かに鍵と格闘。イギリスの鍵は日本のように性能が良くない。正当な手段で開けようとしても、そう簡単には開けられないのだ。しばらくは「あたり」を探らなければならない。正当な鍵なのに。いったんその探りに慣れてしまえば、簡単に開けられるようになるのだが。しばらくガチャガチャやっていると、おめでとう。やっと開いた。中に入ると真っ暗で、ひとりだけ眠っていた。小さな明かりを点け、自分の寝床を確保。疲れているのに、ベットまでの道のりは長かった。

 っていると、他の客が帰ってきた。知らない人たちと部屋を共有するというのは、怖いものだ。バックを抱えて盗まれないようにする。二段ベットだったから、靴も自分のベットに上げておいた。彼らが眠りだすと、いびきが聞こえてきた。しかも何重もの重なりで。これだけ大きく何人ものいびきを聞いたのは初めてだ。気が散って眠れない。しょうがないから耳を自分の手でふさぐけど、まだ聞こえてくる。結局あまり眠れずに朝になった。ロンドンから帰った後、ホストに「まるでオーケストラのようないびきだった」と説明したら、「それであなたはビオラの役目を担ったのね」だって。まあね。

 さなロビーで友人と待ち合わせ、ホステル内のレストランに行く。レストランといっても、学食のようにトレイを持って、好きなものをオーダーしていく。コーンフレークやベーコンをお皿に盛って進むと、おかずを盛ってくれる店員に見覚えが。よく見るとエプロン姿のフロントの人だった。いろいろ働くんだな。また機嫌が悪そうに何か言ってくる。どうやら機嫌が悪いのではなく、そういう性格なんだろう。朝食のチケットを出せと言ってきたからポケットから出す。いきなり言われたから、少し戸惑っていると「チケットだチケット!」とまた疑ってくる。もうこのパターンは慣れてきた。日本ではなんでも丁寧だけど、こっちではこれが普通の対応だ。それに今度はエプロン姿で少しカワイらしい。

 食はおいしく、雰囲気も良い。日本人だけでとる食事だから、二ヶ月ぶりに「いただきます」をした。なつかしい響き。手を合わせるという感謝の気持ちが心地いい。食事中、友達と昨晩の愚痴を言い合ったからもうスッキリだ。食後にコーヒーを飲みたくなり、セルフサービスの飲み物コーナーに行く。コーヒー自体はあったけど、コーヒーカップが積まれていたであろうラックには一つもない。カップは他を見回しても見当たらない。しょうがないから、店員に尋ねようとする。でも例のフロント兼任のエプロン店員しか近くにいない。また半分怒った口調で言われるのは嫌だし、忙しそうに働いているのを妨げるのは気が引ける。

 んなことを考えていると、目の前に他のお客さんである紳士が現れた。俺は不安そうな表情をしていたのだろう。困っているのに気づいてくれたのだ。彼は、俺が何に困っているかもお見通し。ほほえみながら、ラックをクルッ。このラックは回転式だったのだ。俺の視界に入らない裏側にカップは積まれていた。俺はとても嬉しくて、思わずお辞儀をした。自然と、手を合わせながら・・・。久々の「いただきます」で、作法の感覚がおかしくなったのか。無意識って不思議。顔を上げると、なんと彼も同じように手を合わせてお辞儀を返してくれてしまった。とても丁寧に。ああ、ごめんなさい。俺の国では、お辞儀だけなんです。ほんとは。

 分のおかしな行動に気づいたときには、もう彼は向こうに行ってしまっていた。俺は頭をかしげて苦笑い。彼が教えてくれた、コーヒーカップとあたたかいキモチ。この一連のコーヒー事件のなかで、俺と彼は一言も言葉を交わしていない。言葉を超えたところで、または、言葉以前のところで、良質なコミュニケーションをとったのである。俺は彼がどこの国出身で何語をしゃべれるのか知らないし、彼は俺がアジアのどこか手を合わせてお辞儀をする国出身だと思っているだろう。何もしゃべらなくても、まちがった感謝の表し方でも、彼は理解してくれた。相手の流儀で返してくれた。それが嬉しい。気持ちは十分伝え合えたから。

 ーヒーを飲み終わったあとも、俺は笑顔でいることができた。

倫敦6☆

 橋でたそがれてみる  テート美術館内かっこぉいい

 朝9時半、歯ブラシをしてから、無事チェックアウトも終える。朝の爽やかさのなかを、セントポール大聖堂の鐘が壮大に駆け巡る。そこから延びる橋を渡れば、テート・モダンだ。テムズ川の対岸にある、世界最大級の現代美術館。20世紀の巨匠アーティストが名を連ねる。

 ピカソ、マティス、ウォーホル・・・。こういった巨匠たちを、本気で称える友達には未だに出会ったことがない。「理解できないもの」、「子供が描いたような絵」、「俺にでも描ける」というのが世間一般の通念だろう。もし、これを読んでくれているあなたが称えているなら、ぜひ俺に話を聞かせてください。なぜ、これほど、20世紀の芸術をリードするほど、スゴイ絵なのかを。俺は、「理解できない」ものを理解したいのだ。絵画のスペシャリストが、最終的にたどりついたのが「子供が描いたような絵」だという秘密を知りたいのだ。「俺にでも描ける」絵に、その人生の価値観すべてを賭けた思いへ馳せてみたいのだ。

 20世紀の絵画は、そう簡単には理解させてくれない。おそらく、ガチガチの思考に頼るより、感覚のアンテナを働かせるべきなのだろう。鑑賞する側に委ねられた役割。心をオープンにすること。固定概念を一旦崩すこと。感じることは何でも感じ取ること。自分自身で想像を創造すること。今の俺が思いつく術はそんなところ。その良さを未だに知らない世界に、足を踏み入れるのは、とてもワクワクする。きっと理解できたときに、共感できたときに、眺める景色は格別だろう。その扉を開くことに挑戦しないなんてもったいない。

 現代美術の謎を解く鍵探し。これがテート・モダンでの目的だ。

コベントガーデン  本気で楽しんでる

オーマイレイディ いきなりどこからかクラシックの音色が。人混みをかきわけかけよる。

ジャンプ 微妙な力のかけかたで違ってくる。レッド  ブラームスやヴィヴァルディ、ラテン系のタンゴまで。

 1stヴァイオリンのおじさんは笑顔でクインテットを引っ張る。難易度の高い弓使いでも軽々と弾きこなし、難しさを感じさせない。安心感を全体に与えている。音はしっかりと芯があり、よく通っている。このように主旋律の安定を保てたときこそ、伴奏は自由に自分を出せるのだろう。となりで弾く2ndヴァイオリンのお姉さんは冷静に1stを支えている。リーダーのサポートをし、かつ、常にクインテットの和を整えている。チェロは正確にリズムを刻み、それが強靭な機関車のように音楽の推進力となっている。かたや踊るようなメロディーを弾かせれば、機関車トーマスに化けるのであった。

 その機関車を支えるレールとなっているのがコントラバスだ。すごい迫力。鋭い眼力で観客をにらみつけながら、耳は完璧なまでに音楽の方向に傾けている。大胆にピチカート(弦をはじくカッコいい奏法)をし、時には指板を手のひらで激しく叩きつける。少しでもタイミングを間違えば音楽を崩壊させてしまうだろうが、逆にそこから音楽を造り出している。神経を使うはずのレールの切り替えも大胆にさばいてしまう。音楽の方向付けが積極的なのだ。そんな力強さが全体を底上げし、活気を与えている。そしてヴィオラ。積極的に遊んでいる。ヴァイオリンとヴィオラは、光と陰の関係。その陰がブラックであるほど、そこから突き抜ける光は輝く。澄んだ黒を作るには切れ味の良い鋭さが要る。概して、ヴィオラは消極的になりやすい。なくても、なんとか音楽に聞こえてしまうから。しかしそれでは、全体がグレーにぼやけてしまうのだ。コントラストのあるモノクロ写真のように、深みのある黒が全体に奥行きを与える。

 ダッ、ダッ。そんな個性豊かな五人がいっせいにジャンプ。おっと、座っているチェロを除いて。軽快なリズムに合わせてステップを踏む。かと思えば、クルクルといっせいに回転しだす。素晴らしいパフォーマンスだ。視覚的にも楽しませてくれる。五人の息がそろっているからこそ成せる技。音色は、弓の微妙な力加減で変わってしまう。演奏中に動くなんて信じられない。わまりの音に常に反応していかないと

 もう、お気づきだろうか。これは合奏だけに言えることではない。音楽をつくるときに限らず、どんな組織を作るときでも、リーダーは安定を保ちつつ、挑戦していくのが得策なはず。必ず、それをサポートし、全体を考える人間は必要だ。また、リーダーだけでは組織は動かない。実際にプロジェクトを動かす推進力が要る。それを底から盛り上げるのも大切だ。組織に厚みがあるほど、バラエティがあるほど、応用力があるし、思考は柔軟だ。チームワーク、楽しさと厳しさの共存だ。


魔法にかかった  

魔法

デパート 安くなってるからねぇ そうか安くなっているのか・・・ん?からねぇ

しんじさん

    ボーンマスに帰ってきた         しみじみきれいだなあ

ビオラと三匹の子犬☆

6月22日

 

 カタッ、と何か小さいものが落ちてくる。また少年たちの石かと思い振り向くけど、誰もいない。落ちたものをよく見てみると、小さな小さな種だった。どうやら真上の木から、風に揺られ落ちてきたようだ。公園と少年と石は、俺のトラウマになっているみたい。ホッとして、小さな贈り物と共に、またビオラの練習に執りかかる。雲ひとつない青空。どこまでも続いている青。

 の裏庭でも弾いてよいのだろうが、近所への迷惑を考えると長い時間は弾いてられないし、大きい音も出せない。だから、たいていは懲りずに近くの公園でビオラを練習している。演奏会前はそれが放課後の日課。広大な芝生の公園。ちょっと人目につきにくい林のそばに行く。その木陰が俺のお気に入り。太陽がさんさんと輝いているけど、実は今、夜の八時ごろだ。今のイギリスは日照時間が長く、夜十時ころ夕焼けだ。

 ょうど良いベンチに座り、楽器のケースに楽譜を置いて弾くスタイル。室内とは違い、こうして外で弾くと全く反響がない。ビオラ本体の響きだけが音になる。少しでも甘く弾けば汚い音がくっきりと出てしまう。残響でごまかせないからだ。一方、毎週火曜に学校の教室を借りて練習させてもらっている。その教室で弾くと、何と楽なことか。風はないから弓は安定するし、楽器に悪い直射日光を気にしなくていい。ビオラ本来の響きを追求してたから、鳴りが格段に良くなってる。外で弾く、意外な練習効果だった。

 日は一時間半くらいで切り上げた。その間、犬の散歩をしてる人が何人も通りかかった。散歩の仕方は日本とは違い、みんな長い長いロープか、ロープなしだ。ちゃんと飼い主が呼べばついていく。芝生が気持ち良さそう。犬たちは笑顔でゆっくり走っているように見える。興味深いことに、たいていの犬たちが俺のベンチの前で立ち止まるのだ。弾いているところを犬たちに見つめられて、ちょっと恥ずかしい。しばらくビオラの音を聴いてから、飼い主に呼ばれ立ち去っていく。

 るとき、元気の良さそうな三匹の子犬が、俺の観客になった。しばらくして、飼い主のおばちゃまが追いつき、ゆっくりと到着。このおばちゃまは、他の飼い主とは違う。練習している俺に微笑みかけ、「ハアィ」と話しかけてくれたのだ。俺は嬉しいから、笑顔になって答える。おばちゃまは、驚いたように「あなたの音はいいわよ」と、やさしい笑顔で何度も言ってくれた。「私の犬たちが不思議がって、あなたの音を聴いているわ」。三匹が三匹とも、同じ方向をむいて聞き耳を立てている。かわいくて仕方ない。そんな姿を、おばちゃまと笑いあう。暖かい雰囲気のなか、グッバイ。

 ぜかわからないが、その後は疲れが取れていた。

倫敦4☆

                       ちゃいなたうん  

 大迷路のような回廊を抜け、大英博物館の出口へ。未だにどういう構造になっていたのか思い出せない。たくさん歩き倒したから足がだるい。たくさん見すぎたから頭がつらい。外に出るころにはもう、みんな無口に。今日の夜はぐっすり眠れること保証済み。

 ネルギーを補給しないと動けなくなりそうだから、このロンドン旅行最大の目的の前に夕食を摂ることに決めた。チャイナタウンにある中華を目指して移動。店の外観をチェックし、あやしいかどうかを判断。もう直感の世界だ。何が起こるかわからない、そうここは異世界の内に潜む異世界。さまざまな価値観がうごめき合う交差点。今ホットな排日運動の気運にも気を配り、明るい店に入る。

 とりずつ好きなものをオーダー。俺はチャーハンとスープとワインを。友達は何かの麺とビール。もうひとりの友達は別の種類のチャーハン。しばし待っていると、ボーイの兄ちゃんがお皿を用意してくれた。ガチャガチャと今にもひっくり返りそうなくらい荒々しく。そんな姿に俺たち三人は内心びっくりだが、表情には出さない。もう常識外のことに遭遇するのは慣れている。こういうときは、これが中国流なんだなと頭に理解させる。

 れど、出された料理を見て、驚きを声に出す。オーダーの失敗に気づかされたのだ。俺と友達のチャーハンは大盛りの特大。どうやら一人分ではなかったみたい。どうりでとり皿がたくさん用意されているわけだ。もうひとりの友達のどんぶりには、スプーンではなく、おたまが入ってる。味はというと、しない。味付けされているかどうかわからず、油っこい。塩こしょうを一生懸命に振ってから食べる。結局、チャーハンは残してしまった。ワインはおいしく、座っているのが心地よい。久々のお酒が体にまわる。というわけで、こんな(普段以上に)目の細い表情をしているわけなのです。

 カデリーサーカスという場所にあるシアターに向かう。ミュージカルだ。演目は「レ・ミゼラブル」。泊りがけにしたのは、これを観るためというのが大きい。
レ・ミゼラブルだ  三階席だから高い  劇場

 っかけは宮本亜門。日本にいたときテレビで見た、彼のドキュメンタリー。それが心を動かし、ミュージカルをどうしても観たくてしょうがなくなった。そこには人間が持つ感情表現の極致が含まれていると感じた。VTRで一目見ただけで、惹きこまれたのだ。演出家である彼が、俳優の腕の動かし方ひとつ変えただけで、みるみる輝いていく。人をきらめかせる、という力。どうしたら心の内に渦巻く言葉以上の思いをあふれ出させることができるか、その方法を知っているようだ。

 こに、どうすれば人の心をつかめるのか、そんな難題のヒントが隠されている気がする。それは社会人になって、いかに自分を活躍させるか、企画をどうプレゼンするか、企業をいかに広報するか、それらだけでなくさまざまなシーンとつながっているはずだ。「違いがわかる男」。小さい頃CMでしか見たことがなかった彼はコーヒーを飲んでいるだけではなく、とても魅力に富み、情熱的に仕事をしていた。ミュージカルという表現方法を通して。高校の学園祭以前は内気だった彼を、ミュージカルが開花させたという。俺も、がんばって、違いをわかりたい。

 晴らしい音楽。それは演者の感情を支え、さらに感情そのものになる。ミュージカルの歌はオペラよりも現代的で、ポップスよりもドラマチックだ。オーケストラピットでの生演奏も聞き応え十分。

 こはミュージカルの本場ロンドン。たくさんの劇場で数えきれない演目が上演されている。ついに観られる。インターネットで購入した、一番安い席のチケットを握り締めて開場を待つ。入ってびっくり。外の造りは普通なのに、内装はきらびやか。歴史を感じる古びた映画館のようでもあり、事件が起きそうな屋敷のようでもある。幕が上がり、俳優たちが登場。生の人間はやっぱりリアルだ。そこに居る。そこで苦しんでる。そこで喜んでる。歌は予想以上にうまい。特に主人公の女性はすごい。声が光っているよう。ビブラートの揺らぎが俺の心も震わす。背景が真っ暗で、主人公にだけ強いスポットライトが当たる。そんなときは、光が当たってるのではなく、自ら光を発しているかのように見える。そんなことを思っていると突然、舞台が反転。巨大セットが現れた。さっきまでなかったのに。いつのまに無音で準備したのだろう。

 容は、正直とてもよくわからなかった。歌の英語をなめすぎていた。リスニングが半端なく難しい。観客がドッと笑うときに、俺には理解できないのが悔しかった。そんなときは雰囲気で一緒に笑っておいた。クライマックスでは、どうやら悲しい場面だったらしい。となりの女性客が泣きそうになっていたから。なんだか乗りに着いていけないから、いろいろ観察して楽しんだ。カーテンコールのときにはスタンディングオベーションを体験。まわりに乗り遅れないように、頑張って勢いよく立っておいた。「日本語だったらもっと楽しめただろうにな」、と友達に言うと、「ちがうよ、英語を聞けるようになったらだよ」、だってさ。そうでした。

 場の外に出ると、ロンドンの危なそうな夜の街が広がっていた。わくわくするけど、もうくたくた。夜景を楽しみ、早々とチューブに乗りユースホステルに向かった。   

キマった?  自分撮り   ロンドンの夜

倫敦3☆

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 ワーブリッジのそばで発見した建物の写真。かっこよし。イギリス人は石とガラスが好きなんだ。そう思わせる。それらと対照的に、木製のものは一切見当たらない。イギリスの民家は、見た限りほとんどがレンガづくり。一方、日本は木造建築を誇れる。その暖かさが今でははっきりと感じられる。自然と共存しているようで、自然に溶け込んでいるようで。実は、俺の実家は木の家だ。そこが好き。実家でビオラを練習したり、友達とアンサンブルをすると、かなり心地よい響きを醸す。まるで木で作られた楽器が、仲間と喜び合っているように共鳴するのだ。けれど、そんな家は珍しい。日本も今ではコンクリートばかり。密閉性が増し、「清潔さ」と引き換えに、自然や社会と遠ざかる。「清潔さ」とは、有機リン汚染、シックハウス症候群、化学物質過敏症、アトピー、これらとシノニムだ。機能性やデザイン性を残しつつ、人や自然にやさしいものを造るのが、未来の建築テクノロジーであってほしい。


 食後、ガイドブックを広げ、わくわく。これからの計画を立てる。とりあえず次の目的地を選択。そこへは二階建てのバスに乗って移動。二ヶ月も住むともうお馴染みになったが、最初は驚いたものだ。どこに階段が隠れているのか、どうやって運賃を払うのか、二階の屋根がオープンになっている型のバスは雨が降ったらどうなるのか、謎があり、どきどきだった。そんな謎が解けた今でも、ロンドンのハイ・ストリートを駆けるバスは魅惑的。俺たちは喜んで二階に駆け上がる。上の席は見た目の優雅さとは別に、高い分かなり揺れる。酔いやすい人は酔うこと間違いなし。こんなに揺れて、なんで倒れないのか不思議なくらい。一方、そこからの眺めは、優雅なままだ。昔の白黒映画にでてくる街並みが次々と飛び込んでくる。どうやら、バスを外から見るのと、バスから外を見るのは、つまり、見る分には優雅なようだ。優雅でいながら、荒い振動。あたまがあっちやそっちへ揺れながら、到着。

 のロンドン在住の友達のキャンパスがすぐそばにあるそうだ。ぜひ行って見学してみたいとねだり、案内してもらう。校舎内にはガードマンがいて、部外者は建物の中に入れないらしい。アナログなセキュリティだが、デジタルなカードキーなどよりよっぽど確実に入れない。友達のカードを借りて、なんてことはできないもの。こういう最新デジタル技術は、そのまま生活を豊かにしてくれるとは限らないと実感。選択肢を増やしてくれるのであって、それをどう使うかが鍵だ。そんなわけで、見学という名の冒険はまた今度。

二階建て  ロンドン大学 6

 の友達はこれから図書館で論文の資料収集だそうだ。切符の買い方から大学まで案内してくれたお礼を言って別れた後、三人だけになった。ここからは自立しないとね、と、さっきまで後ろをついてきただけなのにふと気づき、気合を入れる。慣れないロンドンの地図を頼りに、右へ行くか左へ行くか議論を重ね、ついに着きました。ここはギリシアの神殿、ではなく大英博物館。

アフリカのアート  神殿内部 図書館    

 ゼッタストーン、これを見にこの超巨大博物館に来たのだ。高校の世界史で習った石の名前。ただの石ではない。古代エジプト文字を解読する鍵であったのだ。ケータイの絵文字のようなヒエログリフと民衆文字とギリシア文字。約二千年前、日本が弥生時代のとき、これを彫った翻訳家はどんな人生を送ったのだろうか・・・。授業中には写真満載の資料集をひとり眺めて、よく空想の旅に出かけていたっけ。その記憶が蘇る。例えばカエサルはこんな顔をしているから、きっと英才教育を受けた生い立ちで・・・とか、ナポレオンが天下を取った後、民衆に失望されたときにはどんな気持ちだったんだろう・・・とか、光陰画家レンブラントの絵に描かれた光の中の少女は次にどう行動したのだろう・・・なんて。そんなタイムスリップが授業中の密かな楽しみだった。年号を覚えていくだけではとても暇だったから、世界のうねりを感じてみたり、登場人物に感情移入していく。すると、地球の人生を宇宙船からのぞけけるのだ。何千年もの時間と、何千キロもの距離を上空から俯瞰するのだ。つまりは、授業中ボケーッとしていたのだ。ごめんなさい、斉藤先生。

すごい図書館  ロゼッタ

 英博物館には、エジプトのみならず、アフリカ、アジア、アメリカ大陸、さまざまなエリアがある。博物館の総合商社だ。ロゼッタストーンのあとは、本格的なエジプトのエリアに行く。そこは装飾品や彫刻などの展示品で埋め尽くされていた。なんでもあり。まるでデパート。エジプト物産市。見るものすべて珍しいし、きれいで、整然としている。エジプト関連だけでもとても広く、ゆっくりは見ていられない。これはきっと歴史的価値があるんだろう、なんて横目で見ながら通り過ぎる。目指すはロゼッタストーンに次ぐ目的、ミイラだ。色彩豊かに彩られた棺が何個が展示されていた。棺の横には包帯で巻かれた人間、かつては人間であったミイラ。それらは棺から出され、姿を露にしている。他の観光客はミイラと記念写真を撮っていたけど、俺たちはとてもそんな気分にはなれなかった。いつもはパチパチ撮っていたカメラをかばんにしまう。あまりに、「展示」されていたからだ。かつては安置され、人々の祈りのなかで眠っていたはずなのに。それが今では、遠いイギリスまで運ばれ、こうして蛍光灯のもとに記念撮影のアイドルになっている。まるでディズニーランドの着ぐるみだ。中には、飢えによって自然にミイラ化したものも展示されていた。蛍光灯のもとに。

 思わず、心の中で手を合わせる。