成田から目指す想い♪ | 月刊ビオラ~Shimpei特集記事~

成田から目指す想い♪

7月30日 成田空港


 の空への港が、チャレンジへの出発点。初めて来たのは、今から六年前。次男の兄は今の俺と同じ、22歳だった。カナダへワーキングホリデーで一年間滞在するために、この成田空港から旅立ったのだ。その目的は、彼自身の目指すべき道を探すためのように思えた。当時の俺は、16歳。母親と三人で成田エクスプレスに乗り、出国ロビーまで見送りに行った。長野からあまり出たことがなく、もちろん海外なんて行ったことがなかった。だから、この出国ロビーは未知の世界へ通じる扉を持つ、不思議な部屋だった。16歳の俺は、強いコンプレックスの塊。親しい友人と話すときでも緊張し、会話っていうのはどうしたら成り立つのか、その方法を見失い絶望していた。何年も何年も何年も。硬い殻を作って、自分の歪んだプライドを守っていた。

 達との関係というのは、集団というのは、社会というのはどういうものなのか。どうしたら自分がこの社会で幸せに居られるのか。自分の居場所。社会に入れる、俺の居場所。その論理を体得して、居られる場所を見つけるために、社会学部に入学した。大学三年間での学問と実践。交響楽団での三年間。自閉症の子どもたちと遊びに行くサークル(フレンズ)での二年間。どちらも最初はとても緊張し、笑うのがぎこちなかった。どう笑顔を作るのか、真剣に試行錯誤した。敵な笑顔をもつ人がいれば、一緒に会話して真似てみた。トークのうまい友達と、その秘訣について朝まで語った。

 学に入りたてのころ、長期間海外に出て自分を磨こうかとも悩んだ。しかし、結局やめた。まずは日本から。この京都から。この大学から。自分のまわりから。小さなフィールドから順番に自信をつけていこうと考えた。俺は不器用なとこがあるから、いきなりは失敗する確率が高い。今海外に出てしまったら、大切な根っこが欠けてしまいそうで怖かった。だから日本で自分のコンプレックスがある程度なくせるまでは、海外を考えないことにしたのだ。自分が今いる場所。ここから世界が始まる。

 野にある知的障害者授産施設と身体障害者デイサービス施設が融合された福祉施設。そこにひとりで手伝わせてください、とお願いした。外の世界をあまり知らない自分に体験させるために。春休み、交響楽団がオフの三週間、朝から夕方まで毎日通った。職員さんたちや受用者の人たちは、こんないきなりの例外的な訪問にも、あたたかく迎えてくれた。一緒にパン作りをして笑い合って。「パンの時間ですよー」と、みんなで売りに行って。社会の矛盾に悩み、話を聞いてもらって。

 の次の春休みには、九州へ「ルーツ探し」の一人旅にでた。九州も初めて。一人旅も初めて。嫌でも自分の力でコミュニケーションしないといけない状況にした。なぜ「ルーツ探し」かというと、父方の家系が俺の頭の中で切り落ちていたからである。父は幼いころ早くに両親を亡くし、東京、大分、広島で親戚の家を渡り歩いてきたそうだ。一番身近でありながら、未知の家系。

 戸から大分まで一晩かけてのフェリー。ひとりの不安。どんな人たちかわからない恐怖。話したのは訪問をお願いした電話のみ。とても厳しい人たちかもしれない。自分が居る背景に何が積まれてきたのか、祖先のDNAをたどる旅。自分が抱いた猛烈な不安をよそに、本家のおじいさんは「もう大分港に着いたかい」と何度も携帯に電話してくれ、笑ってしまった。高齢であるのに、夜遅くまで祖父のことを話してくれ、多くの質問に凛とやさしく答えてくれた。1800年代から自分まで続く家系図や家訓、古文書。その出会いが、心の安定につながっている。

 数十人もいて、緊張していた交響楽団。でも三回生のとき、弦マスター兼ビオラトップに推薦してもらえ、みんなと必死に頑張るなかで自信が生まれてきた。朝の集合時間の前に、ひとりで心拍数を下げないといけなかったフレンズ。今ではみんながいるからリラックスできる。子どもたちから基盤となるコミュニケーションを勉強できた。少しずつ少しずつ、長い時間をかけて、自然に笑えるようになった。友達と自然に会話できるようになった。思ったことを言葉にすることができるようになった。

 前で堂々といられる人、いつでもリラックスしていられる人、笑いを伝播できる人、言いたいことを言える人、俺が気がつかないことに気を配れる人。一生懸命に見つめてみると、みんなみんな素敵なとこを持っていた。いつも、すごいなあと感心して、吸収できたらと願ってきた。うして、やっと海外へ挑戦する機会が整うこととなった。


 りを持って、一年間の休学を決意した。自信を持って、大学三年間を宝箱にしまったんだ。

 

 次に成田空港に来たのが今年の四月。イギリスへの出国だ。七月中旬まで三ヵ月半の語学留学。成田から出るための手続きの度に焦っていたっけ。ゲートが自分を丸裸にしていった。イギリスに着き、夜ひとり、寂しさが身にしみた。英語ばかりの生活に疲れ、交響楽団やフレンズの写真をじっと眺めていた。日本がまるで夢の中の時間に思えた。あの頃の自信、まわりの友達が俺を認めてくれた思い出が俺を支えてくれた。

 学学校で出会う人たちのほとんどが外国人。自分のバックグラウンドは一切知らない彼らといかに仲良くなるか。自分の表現方法。英語が拙いぶん、表情や態度、雰囲気、ボディーラングェジが磨かれた。学歴や出身地、過去何をしてきたか、など一切を除いた自分。そんな素の自分との対面だった。初対面の相手を前に、まずどう振舞うか。どう表情を作るか。どういう心持で臨むか。その効果を判断したいとき、相手の雰囲気がそのまま自分を映し出す鏡となった。

 「doing a shimpei」 これは、イディオムの授業で先生が黒板の熟語リストに付け加えたフレーズ。俺は毎日、授業が始まった3分後に教室に入る。5分までは遅刻にはならないからギリギリだ。ん?ギリギリ遅れている。それが習慣になってしまい、いつも先生の目を盗んで笑顔で席に座った。そんな行動と、日本人の時間正確さを熟語にしたそうだ。こういうのが熟語なんだと説明するためと、クラスで豪快に笑いあうために。こうやって一緒に笑うことで、笑えることで、自分が社会に居る実感がした。とても、嬉しかった。

 分そのものを磨いて魅力的にしていくことが、人間力、別の言い方をすれば、人徳につながるのだろう。そして、この人間力が円滑なコミュニケーションにつながる。過去の自分のコンプレックスが、逆に強みになると確信した。

 回目の成田で目にしたのは「おかえりなさい」という日本語。大きく到着ロビーに掲げられていた。ふるさとに帰ってきた実感。驚くことに、日本語で話すこと自体が、楽なことになっていた。六年前はあんなにつらかったことなのに。だから今、友達はもちろん、たとえ初めて訪れた喫茶店のウェイターとだって、緊張せずに会話を楽しめる。これを読んでくれている人には当たり前のことかもしれないけど、俺にとって革命的なことなのだ。たくさんつらい思いをしたあとは、それ以下のことが余裕になるんだな。

 して今、四回目の成田空港。再び海外への挑戦。もう成田は慣れたフィールドだ。どこに何があって、どう手続きをするかを知っている。もう四回目だもの。

 度も、この言葉を心の中で繰り返し、自分を励まし、初めてのことにトライしてきた。

つも、つらいのは最初だけ」

 、写真家になるため頑張っている兄。成田に来る直前、家族写真や作品とともに、彼のバイブルを餞別にもらった。その本は挑戦を恐れず、自分をつらぬき、ほんとうに”生きる”ための指南書だった。

                   imanojibunn